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第163話 抑えなくていい怒り

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-08-25 06:00:48

 取り出された紙片は、指二本分ほどの幅しかなかった。端は黒ずみ、折り目のところが白く割れている。

 高瀬さんがライトを寄せた。

 紙には、青いインクで短い文字が書かれていた。

『白桐産院 旧棟』

『五月十七日 深夜』

『看護師長 狭山』

『葛城へ』

 たった、それだけだった。

 日付を読んだところで、目が止まった。

 五月十七日。

 私の誕生日。

 頭では分かっていた。識別バンドにも、葛城から送られた写真にも、その日付はあった。

 それでも、祖母の守り袋の内側から同じ日付が出てくると、別の重さになる。

「……どうして」

 声が、紙片の上に落ちた。

 高瀬さんも律も、答えるまでに間があった。分からないことを分からないままにしているのだと、頭では理解できた。

 それでも、今はその慎重さが痛かった。

「祖母は、これを知ってたんですね」

 私は紙片から目を離せないまま言った。
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    「手順の線引きは、高瀬に任せましょう」「私を止める役まで、榊さんが引き受けないでください」 言い方がきつくなった。 律は一度、視線を落とした。「では、私からは止めません」「必要なら、こちらから言います」 律は、今度は言葉を足さずに頷いた。 素直な返事に、こちらの方が戸惑った。律は肘掛けの端を指で一度なぞった。「……今のは、少し八つ当たりでした」「受け取っておきます」 それで会話は終わった。 紙片の文字へ視線を戻す。 でも、紙片の文字はそこにある。 白桐産院。五月十七日。狭山。葛城へ。 紙片に並んだ文字は短い。短いのに、そこには人の出入りと、誰かの判断と、閉じられた扉の匂いまで混ざっている。産院という文字を見ているだけで、白い壁、薬品の匂い、泣き声を押し殺す誰かの手を想像してしまう。 祖母は、この紙をどこまで理解して残したのだろう。全部を知っていたのか、断片だけを拾って、私へ渡そうとしたのか。聞けない問いばかりが増えていく。守り袋は、祖母の愛の形だったはずなのに、今は刃物の鞘にも見えた。 祖母の死が、まだ乾かないうちに、私の出生は別の扉を開けている。 高瀬さんが紙片を保全袋に入れ、封緘した。管理番号を書き、時刻を読み上げる。宮野さんが守り袋を別の柔らかい布の上へ戻し、切った糸の写真を撮った。「葛城静司へ、正式に照会します」 高瀬さんが言った。「先方からの接触を待つより、こちらから?」「既に一度、封筒を送ってきています。接触の意思はあると見ていいでしょう。ただ、面会場所と同席者はこちらで指定します」「私も行きます」 私が言うと、律はすぐには頷かなかった。 また止められるのかと思った。 けれど、律は少し間を置いてから言った。「行く前提で、条件を詰めましょう」「分かりました」 私は紙片へ視線を戻した。 高瀬さんの端末に通知音が鳴った。 端末に表示された差出人を、全員が見た。 

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     取り出された紙片は、指二本分ほどの幅しかなかった。端は黒ずみ、折り目のところが白く割れている。 高瀬さんがライトを寄せた。 紙には、青いインクで短い文字が書かれていた。『白桐産院 旧棟』『五月十七日 深夜』『看護師長 狭山』『葛城へ』 たった、それだけだった。 日付を読んだところで、目が止まった。 五月十七日。 私の誕生日。 頭では分かっていた。識別バンドにも、葛城から送られた写真にも、その日付はあった。 それでも、祖母の守り袋の内側から同じ日付が出てくると、別の重さになる。「……どうして」 声が、紙片の上に落ちた。 高瀬さんも律も、答えるまでに間があった。分からないことを分からないままにしているのだと、頭では理解できた。 それでも、今はその慎重さが痛かった。「祖母は、これを知ってたんですね」 私は紙片から目を離せないまま言った。「少なくとも、これを守り袋に縫い込ませるか、縫い込まれたことを知る立場にはいた可能性があります」 高瀬さんの言葉は慎重だった。「可能性」「断定できる段階じゃありません」「分かってます」 言ったものの、語尾は自分でも分かるくらい硬かった。 祖母は私に、あなたは誰かの代わりじゃない、と言った。 なら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのだろう。 あなたがどこから来た子なのか。誰が隠したのか。誰が私を如月家に置いたのか。 聞きたかった。 もう聞けない。 手袋越しの手が、紙片に触れる寸前で止まった。「狭山という姓に、心当たりはありますか」 律が高瀬さんに尋ねる。「現時点では、ありません。ただ、白桐産院の旧棟は二十年以上前に閉鎖されています。その後、白桐記念クリニック、白桐メディカルセンターと名称が変わっている。KMSホールディングスの傘下に入った時期と、重なるかもしれません」「葛城へ、っていうのは」

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    「形見なら、大げさなくらいでいい」 返す言葉が見つからなかった。 窓の外で、信号の赤い光が雨粒に割れている。私は保全袋を抱えるように、両手を重ねた。 赤い信号が消えても、保全袋から手を離せなかった。 祖母。 祖母を責める考えが浮かび、すぐに打ち消した。それでも、問いは残った。 榊邸に戻ると、玄関ホールはいつもより静かだった。 葬儀から戻った私に、使用人たちは深く頭を下げた。誰も大げさに声をかけない。黒い喪服の裾が、磨かれた床に淡く映っている。 書斎にはすでに高瀬さんがいた。机の上には白い布、薄い手袋、透明の保全袋、撮影用の小型ライトが並べられている。宮野さんも少し離れた場所に立ち、裁縫箱ではなく、細いピンセットと糸切りばさみを用意していた。「朝霧様」 高瀬さんが立ち上がる。「作業前に確認します。これから見るのは、守り袋の外側と、縫い込み部分です。できるだけ布を傷めないよう進めます。全工程を動画で残し、取り出した紙片は別の保全袋へ。……よろしいですか」 言葉だけ聞くと、祖母の形見ではなく、事件の証拠みたいだった。 祖母の形見を証拠として扱う言葉に、返事が遅れた。 私は守り袋を見たまま、どうにか頷いた。 頷いたはずなのに、喉の奥はまだ固く閉じていた。 律が横から口を挟んだ。「始めたあとでも、あなたの一言で止めます」「止めたら、祖母が隠したものも、そのままになります」「隠したのか、守ったのかは、まだ分からない」 その区切りに、少し救われた。 祖母が嘘をついていた、と決めるのは早い。 でも、何も知らなかった、と信じるには、守り袋は重すぎる。 私は椅子に座り、保全袋から守り袋を取り出した。 薄い赤の布地は、ところどころ色が抜けている。角の金糸はほつれ、内側には細かな綿のふくらみがある。祖母の手紙にあった通り、裏側の縫い目だけが少し不自然だった。 宮野さんがライトを当てると、縫い目の下に、紙の影のようなものが浮かんだ。「縫い目の下に、紙が

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     怒りでも面白がりでもなく、計算にない反応を一つ記録したような目だった。「それは、危うい」「危うくても」 声を出す前に、唇を一度湿らせた。 言葉は止めなかった。「知らないところで話を進められるのは、もう嫌です」 隣で、律の指が肘掛けに触れた。 康生は、ゆっくりと頷いた。「……静江様が、あなたを手放したくなかった理由が分かる気がします」 手放す。 その言葉が、骨に触れた。 私は祖母を失ったばかりだ。なのにこの人は、祖母の愛情まで、誰かが持っていたもののように言う。「祖母は、私を持ち物にしたことはありません」 声の終わりが揺れた。 言い直さなかった。「一度も」 康生の視線が私の喪服の袖口へ落ちた。守り袋は、バッグの奥にある。 それを知っているのか、知らないのか。 分からないまま、康生はまた微笑んだ。「大切にされてたのですね」「……大切な人でした」「ならば、なおさらです」 康生は一歩だけ近づいた。 律の手が肘掛けを押さえる。相良さんが受付台の横からこちらへ目を向けた。高瀬さんは少し離れた場所で、弔問客名簿を閉じる。 誰も大きく動かない。 だからこそ、全員が動ける位置にいることが分かった。 康生は、私だけに聞こえるほどの声で言った。「あなたは、ここにいるべき人ではなかった」 数珠の糸が、指の間で小さく軋んだ。 ここ。 如月家の葬儀か。 榊家の隣か。 朝霧栞という名前の場所か。 訊き返す前に、康生は一礼した。「それでは、また」 黒い喪服の背中が、会場の出口へ向かう。 足音は最後まで乱れなかった。 私は数珠を握ったまま、康生の背中が消えるまで立っていた。 律が私の名を呼んだ。「……意味を、聞くべきだったでしょうか」 よ

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